小千谷縮トートバック 椅子ブルー
【おじやちぢみとーとばっく いすぶるー】
¥8700(税抜)
1200年の歴史と伝統を誇る新潟・小千谷の地で受け継がれた天然素材の麻と織りが一体となりしなやかで心地よい肌触りをつくり最高級品として風格を持つ逸品です。また、独特のシボはひとつひとつ丹念にお湯の中での手作業によりその風合と漢書を生み出します。(水田株式会社IONOより)
商品コード:27560001
JANコード:4573245000679
サイズ(cm):高さ 29 幅 29 奥行 8
形状:
用途:トートバック
取扱い上の注意:洗濯機で洗う場合、ソフト(手洗い)コースなどで洗って下さい。漂白剤を含まない中性洗剤を少量使い、脱水も短めにしてお洗濯ください。手洗の場合、水またはぬるま湯に浸し、やさしく押し洗いします。決してゴシゴシとこすらないで下さい。
注意:
在庫:2
出典:水田
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越後上布に改良を加えたのが小千谷縮です。江戸中期の寛永10年(1670年)、明石藩の浪士・堀 次郎将が小千谷に移住し、本来の製法に改良を加えました。糸の段階で緯(よこ)糸に強い撚りをかけて布を織り、織り上がった布をお湯の中で丹念に強くも揉み込みます。すると織物が縮もうとする性質を利用してシボ(細やかな皺)が形成され、独自の触感を持った小千谷縮が生まれるのです。そしてこの貴重な技術は、世界に認められる独自の技術を有する証明となりました。 2009年 ユネスコ世界文化遺産登録1955年 国重要無形文化財第一号指定 重要無形文化財の指定条件昭和30年5月12日指定1.すべて苧麻を手績みした糸を使用すること。2.絣模様をつける場合は、手くびりによること。3.いざり機で織ること。4.しぼとりをする場合は、湯もみ、足ぶみによること。5.さらしは雪ざらしによること。
出典:水田
うつわ
麻
出典:wikipedia
麻(あさ)は、植物表皮の内側にある柔繊維または、葉茎などから採取される繊維の総称。
元来日本語で麻繊維はアサ科アサ属の大麻(学名Cannabis sativa)から作られた繊維を指す名称であった。古代から日本に自生し繊維利用の盛んだった植物Cannabis sativaを麻と呼称していたが、後に海外より持ち込まれたアマ科の 亜麻(Linum usitatissimum)やイラクサ科の苧麻(Boehmeria nivea var. nipononivea)などを含めた植物繊維全般を指して「麻」の名称を使うようになったため、本来の麻Cannabis sativaを植物の背丈が大きく成長する特徴から、大麻(おおあさ、たいま)と区別して呼称するようになったとされている。 現在日本で麻の名称で流通している繊維のほとんどは亜麻(学名Linum usitatissimum)から作られるリネンである。また、日本で麻の名称で流通させて良い繊維は亜麻と苧麻のみであり、本来の麻(大麻)は指定外繊維となる。
麻と呼ばれる繊維は数種類があり、家庭用品品質表示法によると、苧麻(ちょま : カラムシ、ラミー)と亜麻(あま、リネン)の2種類を指す。これらは光沢と通気性があり、肌触りの良さから夏物の衣料品や寝装具などに用いられることが多い。繊維的には羊毛や綿花より硬いので、硬質繊維といわれる。他植物の麻繊維や薬物の大麻との混同を避ける目的から、日本でも大麻繊維を英語に倣いヘンプ(hemp)と呼びかえる動きがある。なお、亜麻色とは、黄みを帯びた薄い茶色のことで亜麻からきた色名である。
戦前では、1909年(明治42年)の小学校の理科の教科書で、大麻について教えられており、栽培方法や繊維の製法、用途としては、布、糸、縄、帆、下駄の緒、茅葺屋根、小鳥の餌に麻の実を、また麻油があるとしている[1]。また、中学校の教科書では、加えて紙に用いられることが教えられており、[2]教員用の教科書では、大麻は衣服の原料として綿のない時代から今日まで広く栽培され重宝されたと記載されている。[3]
出典:wikipedia
小千谷縮
出典:重要無形文化財小千谷縮・越後上布技術保存同人会
小千谷縮(おぢやちぢみ)は、新潟県小千谷市周辺を生産地とする麻織物。撚りが強い糸で織った布を雪で晒すことで、撚りが水分を含んでほどけて布に「しぼ」が出来るのを利用した織物である。南魚沼市を生産地とする越後上布と共に、国の重要無形文化財に指定、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。堀次郎将俊が明石縮をもとに越後麻布から改良したもので、昔は農民の副業として特に冬に生産されていた。
小千谷縮の歴史
17世紀、堀次郎将俊(明石次郎)が、絹織物であった明石縮の技法を応用し、越後麻布の改良に成功した。その改良は魚沼地方全体に広がっていった。当時は、越後縮と呼ばれていた。17世紀中頃、小千谷で縮市が開かれるようになった。魚沼・刈羽・頸城で織られた縮が小千谷の仲買人・問屋に集められた。他に、堀之内・十日町でも縮市が開かれていた。『越後名寄』には、「4月から7月迄行われる縮市には、江戸・京・大坂など日本中の商人が集まっていた」と書かれている。1800年の『北越志』には、「大きな家も、小さな家も、民家は一軒残らず機織の音のしない家はない。皆、縮を織っているのだ。」と書かれている。『北越志』の著者が越後を訪れたのは夏の頃で、織りの最盛期ではなかったが、それでも、多くの家が機織していたという。寛政の改革(1787年)、天保の改革(1842年)で、高級品の売買や使用を制限されたため、縮問屋や生産者は大損害を受けた。江戸時代後半には非常に精緻な域に達し銅銭の孔を通せるほどの薄い反物を製産できるまでになり、大阪の盲人音楽家峰崎勾当作曲の手事物地歌曲、越後獅子の中でも、越後の名産品の一つとして「縮は肌のどこやらが見え透く国の風流を・・・」とうたわれている。同曲は後に長唄にも取り入れられ、著名な歌舞伎舞踊曲となっている。1955年5月12日、「越後縮」として国の重要無形文化財に指定される。指定名称は1960年に「小千谷縮・越後上布」に変更。1976年、越後上布・小千谷縮布技術保存協会が保持団体に認定されている。2009年9月30日、ユネスコ無形文化遺産に登録される。
小千谷縮と堀次郎将俊
堀次郎将俊は播磨国明石出身の浪人で、明石次郎とも呼ばれていた。17世紀、同市山谷の庄屋の家に妻と2人の娘と共に移り住んだ。越後麻布を改良し、村人に教え、魚沼地方に広げた。その改良は、横糸に強いよりを加えてちぢみをだし、苧績みや、布のさらし方にも工夫を凝らしたものだった。その後、小千谷縮は夏の高級織物として日本中に名が広がった。堀の死後、小千谷縮を発明し、小千谷を発展させた彼の功績を称え、明石堂が建てられた。今でも、9月12日には、織物組合による祭りが開かれている。また、明石堂は平成18年に小千谷市指定文化財に指定。
縮商人
西脇家や西新家はじめ、多くの問屋があった。また、小さな旅商人は、1人で3,40反の縮を担ぎ江戸へ行商に出かけていたが、やがて力をつけ、後に呉服問屋などにも影響を与えるほどになる。行商人は組合をつくり、魚沼に43人、頸城に41人、刈羽に25人がいた。
出典:wikipedia