出西窯
【しゅっさいがま】
出典:出西窯
日本, 〒699-0612 島根県出雲市斐川町出西

のどかな風景が広がる出西
出雲市斐川町出西。出雲の西という意味の出西とは、このあたりの土地の名前です。
昭和22年物資も食料も不足し、明日の暮らしもままならない戦後間もない頃、地元の幼馴染の青年たち5人が「何もないここから、自分たちでなにかできないか」と志を同じくして集まりました。
多々納弘光、井上寿人、陰山千代吉、多々納良夫、中島空慧、全員農家の次男三男で、19歳20歳の若者グループでした。
彼ら5人は最初から陶芸に対して特別な想いがあった訳ではなく、「手作りで何かできないだろうか?」という漠然とした思いから、紆余曲折を経て行き着いた先が焼き物でした。この土地の粘りの強い土が、焼き物に向いているという話を聞いたのがきっかけでした。
とはいえ、陶芸に関して経験も知識もなく全くのゼロからのスタート、一から窯を作り、手探り状態の創業でした。
その当時出雲市にあった工業試験場の技師に指導を受け、最初は古伊万里や京焼のような美術的鑑賞価値のある陶芸品を見よう見まねで作っていましたが、ある日松江の工芸家である金津滋が窯を訪れ、「君たちの仕事には、美しさも志もない」と指摘され、民芸運動を起こした柳宗悦の本を渡されます。
自分たちの方向性に迷いを感じていた彼らはその本に多大な影響を受け、同じく民芸運動を展開していた安来市出身の陶芸家、河井寛次郎に指導を懇請し、その後多数の技術者たちから指導を受けることができたのです。
それまで顧みられることのなかった、日常的な暮らしの中で使う手仕事の日用品の中に美しさ(用の美)を見出し活用しようという日本独自の運動。
柳宗悦を中心に陶芸家の濱田庄司や河井寛次郎らとともに展開され、全国の無名の職人が作る民衆的工芸品の中に美を見出し、広く伝える活動のために全国各地を精力的に回りました。民芸という言葉は民衆的工芸品の略であり、彼らによって生み出された言葉です。
多々納らの要請を受け出西窯を訪れた河井寛次郎から指導を受けることで、芸術品を目指していた青年たちの価値観は大きく変わります。そしてその繋がりから柳宗悦や濱田庄司、鳥取出身の民芸運動家である吉田璋也、イギリスの陶芸家バーナード・リーチらとも交流が生まれました。
民芸運動の重鎮たちからその精神を学び、また修行に出て技術指導を受けることで彼ら5人は確実に実力をつけていき、思考錯誤を繰り返すことで、現在のスタイルを築き上げていったのです。


「その器は唇に喜びがあるか?」 多々納らに指導をした陶芸家の一人、バーナード・リーチの言葉です。 コーヒーカップであれば、持ちやすいのか、口にあてた時に喜びがあるか? つまりその器でコーヒーがどれだけ美味しく飲めるのかが、「道具」としての価値ということになります。 リーチの教えを大切にするように、出西窯は「道具」にこだわります。 そして美しいフォルムと深みのある色彩は、美術的観点からも高い評価を受けており、その証拠に、過去多数の公募展に入選・入賞しています。 美を追うのではなく、実用を求め行き着いたところに美があった、まさに「用の美」という民芸運動の思想の元に生まれた器であると実感させられます。

「無自性館」、展示販売館に名付けられたこの「無自性」とは、哲学者山本空外師より教えられた言葉で「衆縁に従るが故に必ず自性無し(世の中は何もかも"おかげさま"によるもので、自分の手柄などどこにもない)」という意味だそうです。
その理念に従うように、この出西窯では材料となる粘土や釉薬、薪などの原料に至るまで島根県産のものにこだわっています。土地から与えられたもの、多くの人たちの支えによるもの、自分たちがこうして器造りを続けられるのは、そうした「おかげさま」があるからという強い信念があるのです。
そして窯主を持たず、一つ一つの工程が共同作業であるのも特徴。
ここには個性を打ち出す芸術家はおらず、どんなに名が売れても高価になってしまっては多くの人に使ってもらえない。自分たちの作っているものはあくまでも台所の道具であるという同じ志を持った職人たちの共同作業場なのです。
苦労も困難も喜びも共同体で分かち合った5人の青年たちの信念は大切に今に受け継がれ、現在18人の共同体となって今日も「台所の道具」を作り続けています。
出典:出雲観光ガイド