川喜田半泥子
(出典:ZTV)川喜田半泥子(かわきた はんでいし)
1878〜1963年は、日本の陶芸家・実業家・政治家。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。(出典:wikipedia)
大阪府生まれ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となった。母は18歳であったため、その若さで未亡人となるのは不憫と実家に帰され、半泥子は祖母「政」の手によって育てられた。また筆頭分家の川喜多四郎兵衛からも教育を受け、三重県尋常中学(現在の三重県立津高等学校)を卒業。1901年(明治34年)、23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚している。
1903年(明治36年)に百五銀行の取締役に就任。1919年(大正8年)に第6代頭取となり、1945年(昭和20年)2月まで頭取を務めた。頭取としては、「安全第一」をモットーに健全経営を行う一方で地元の中小銀行を買収・合併していき、1922年には吉田銀行、1925年には河芸銀行、1929年には一志銀行を買収し、1943年には勢南銀行を合併して規模を拡大していった。1924年には津市中心部の丸之内に新本店を建設。1931年の金融恐慌においては自らの個人株を担保として日本銀行より現金を借り入れ、窓口に積み上げて現金が豊富にあることをアピールし、取り付け騒ぎを乗り切った。こうして、彼の時代に百五銀行は三重県有数の金融機関に成長した。頭取以外にも、三重県財界の重鎮として、三重合同電気社長や明治生命の監査役などいくつもの会社の要職を務めている。また、1909年(明治42年)からは津市会議員、1910年(明治43年)からは三重県会議員を務めた。(出典:Wikipedia)
(出典:yoshida art 青いノート)
(出典:三重県立美術館)
陶芸は趣味で、当初は陶工に作らせていたものの納得が行かず、50歳を過ぎてから本格的に自ら作陶するようになった。1933年には千歳山の自宅に窯を開き、本格的に作陶を開始した。主に抹茶茶碗を製作した。作風は自由奔放でおおらかと評される。陶芸のほかに、書や画もよくしたが、あくまでも趣味としての立場を貫き、生涯に一作品も売ることはなく、出来上がった作品は友人知人に分け与えた。豊富な財力で、1930年(昭和5年)に「財団法人石水会館」を設立し、同名の文化施設を津市中心部の丸の内に建設して文化事業を支援した。文化施設は1945年に戦災により焼失したが、財団法人はその後も文化活動を行った。同年、自宅のある津市南部の千歳山に川喜田家の所蔵品収蔵庫として千歳文庫を建設した。また、1942年(昭和17年)「からひね会」をつくり全国の陶芸家と交流を持ち、「荒川豊蔵」「金重陶陽」「三輪休雪」ら3人の人間国宝を支援した。戦後、千歳山の自宅が進駐軍に接収されたため郊外の広永へと移転し、自宅にあった窯もこの地に移した。1945年に百五銀行の頭取から会長に退き、1950年には相談役となった。1955年には再び千歳山に住まいを移した。
死後、「石水会館」は半泥子が生涯をすごした津市の丸之内に1980年「石水博物館」を設立し、川喜田家に所蔵されていた半泥子の作品を公開している。石水博物館はその後、2011年に半泥子の自宅と千歳文庫のある千歳山に新築移転した。(出典:Wikipedia)