柳宗悦
1.来歴
東京府(現:東京都)において、海軍少将柳楢悦の三男として生まれた。旧制学習院高等科を経て東京帝國大学卒業。専攻はウィリアム・ブレイクやウォルト・ホイットマン等の英語圏の宗教哲学であった。嘉納治五郎は母勝子の弟であり、1911年(明治44年)に治五郎が千葉県の我孫子(現在の我孫子市)に別荘を構えると宗悦も招かれここに住んだ。さらに志賀直哉らを呼び、我孫子に文人らが集結し白樺派文学が進展するきっかけをつくった。旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民藝運動を起こした。1936年(昭和11年)、東京府東京市目黒区駒場(現:東京都目黒区)に日本民藝館を設立。戦前、北海道、東北、沖縄、台湾などの工芸の紹介に尽力した。1957年(昭和32年)、文化功労者。晩年はリウマチや心臓発作との闘病を余儀なくされたが、なおも執筆活動を続けた。1961年(昭和36年)春に脳出血により、日本民藝館で倒れ数日後逝去した。
出典:wikipedia
2.柳宗悦の思想
「民藝」という言葉を生み出したことで有名な柳宗悦であるが、若き日は様々な二元に引き裂かれる人間存在にとって、可能な救いとは何かを問い求める宗教哲学者であった。そこで彼が見出したのが、二元の多様を内包すると同時に「実在/神の閃き」を映し出す「自然」であった。そして、「自然に則る生き方」こそ、現世に生きる人間が「二にあって一に達する道」であると考えるようになる。しかし、そのような「自然に則る生き方」とはどのようなものなのか。彼は下手物の収集や、各地を旅行し、土地に根付いた人々の生活を見るなかで、「自然に則る生き方」の具体的発現を見つける。それこそが「民藝」である。柳によれば、鑑賞される純粋な美術品とは異なり、民藝は「下手物」、つまり日々の生活のなかで使われる道具であり、したがって、民藝の美は、用に即することによって生まれる「用即美」である。そのような民藝は、美術品が一部の天才的個人によって作られるのとは対照的に、あくまでも普段使いの工芸品として、名も知れぬ民衆によって生み出される。名もなき民衆が生活のため、その地で与えられた天然の資源を基に作り、日々の生活のなかで使われるものだけが「民藝」と呼ばれるに値する。そのような民藝は土地と生活に生みだされたものであり、それゆえに「器には自然の加護がある。器の美は自然の美である」と柳は言う。そのとき民藝は柳が求め続けた「自然」の開示となる。しかし、このような民藝を生み出したのは無学な名もなき民衆である。彼らは救いを求めて、工芸品を作るわけではないが、生活のため、工芸品を作るなかで、深く土地の自然と交わり、自然へと帰依していく。そうして作り出された民藝に偶さか「自然」が開示され、「美」が宿る。凡夫でありながら、自然に帰依するとき、美を生み出す力が与えられるということ、柳はそこに無力な衆生が仏に身をゆだねることで救われる「他力道」のあらわれを見てとる。それは柳が若き日に求めた「二にあって一に達する道」であった。
3.柳宗悦と鈴木大拙
大拙と柳との出会いは、1909年(大拙39歳、柳20歳)の頃です。柳は、学習院高等科において英語を大拙に学んだのが機縁となり、個人的にというだけでなく、思想上においても大拙と交わりました。とりわけ、1940年代半ばからふたりは深くかかわるようになります。
「民藝」=MINGEIを提唱し、日本民藝館の創設者として国内外において広く知られる柳は、そればかりでなく、宗教哲学者として大きな業績を残しています。 大拙と柳は、日本および東洋の文化や思想を西欧世界へ紹介するだけでなく、東洋・西洋という対立を超える視点を持ち合わせていました。ともに「無心」を一貫して重要なテーマとし、仏教研究では、大拙に導かれ柳もまた、禅だけにとどまらず浄土思想にまでわたって、とりわけ妙好人を共通の課題として、精力的に取り組みました。
鈴木大拙は柳宗悦を「天才の人」と高く評価し、自らの後事を託すつもりでいたほど信頼を寄せました。
4.書籍
5.柳宗悦と民藝
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