まずは、十四代に及ぶ中里家の歴史を紐解いてみよう。前述の通り、唐津焼のおこりは、唐津の岸岳の陶工たちである。中里家の初代・又七は、唐津焼が隆盛を極めた文禄年間に、伊万里市大川町に田代窯を開窯し、岸岳直系の古唐津を作った。そして元和初期に、当時の中心地であった椎の峯窯へ移り、藩主であった寺沢氏の御用窯を務め、以降、その庇護のもとに、唐津焼の本流として伝承の技を受け継いでいく。初代又七から数えて5代目が現在の唐人町に開いた御茶盌窯が、14代の今日まで守られている。
また、長い歴史のなかでも、12代は、古唐津の衰退期以降、現代にその魅力を広く再認識させた不世出の天才といわれ、近年の唐津焼への憧憬をゆるぎないものにしたことで名高い。
館内は、12代以降、当代の14代までの作品を展示する新館と、窯の作品が購入できる展示館(旧館)の2つの建物から成り、その間を日本庭園を見下ろす、風雅な渡り廊下がつないでいる。 新館の荘厳な空気のなかに、代々の当主の茶碗が展示され、柔らかな土味の中から立ち上がる凛とした気品にうっとりさせられる。「いつまでも眺めていたいようですね」と長尾さん。
また、展示館には、熟練の陶工たちが作る器が所狭しと並んでいる。絵唐津の皿を一枚一枚見ていくと、もちろん手描きだから微妙の差異はあるものの、その仕事の安定感に、今さらながらに目を見張る。
「やっぱり違いますねえ。手にとると落ち着きます。技術や仕事の確かさが、格の高さにつながっているのですね」と長尾さんも関心しきりだ。
">まずは、十四代に及ぶ中里家の歴史を紐解いてみよう。前述の通り、唐津焼のおこりは、唐津の岸岳の陶工たちである。中里家の初代・又七は、唐津焼が隆盛を極めた文禄年間に、伊万里市大川町に田代窯を開窯し、岸岳直系の古唐津を作った。そして元和初期に、当時の中心地であった椎の峯窯へ移り、藩主であった寺沢氏の御用窯を務め、以降、その庇護のもとに、唐津焼の本流として伝承の技を受け継いでいく。初代又七から数えて5代目が現在の唐人町に開いた御茶盌窯が、14代の今日まで守られている。
また、長い歴史のなかでも、12代は、古唐津の衰退期以降、現代にその魅力を広く再認識させた不世出の天才といわれ、近年の唐津焼への憧憬をゆるぎないものにしたことで名高い。
館内は、12代以降、当代の14代までの作品を展示する新館と、窯の作品が購入できる展示館(旧館)の2つの建物から成り、その間を日本庭園を見下ろす、風雅な渡り廊下がつないでいる。 新館の荘厳な空気のなかに、代々の当主の茶碗が展示され、柔らかな土味の中から立ち上がる凛とした気品にうっとりさせられる。「いつまでも眺めていたいようですね」と長尾さん。
また、展示館には、熟練の陶工たちが作る器が所狭しと並んでいる。絵唐津の皿を一枚一枚見ていくと、もちろん手描きだから微妙の差異はあるものの、その仕事の安定感に、今さらながらに目を見張る。
「やっぱり違いますねえ。手にとると落ち着きます。技術や仕事の確かさが、格の高さにつながっているのですね」と長尾さんも関心しきりだ。
">まずは、十四代に及ぶ中里家の歴史を紐解いてみよう。前述の通り、唐津焼のおこりは、唐津の岸岳の陶工たちである。中里家の初代・又七は、唐津焼が隆盛を極めた文禄年間に、伊万里市大川町に田代窯を開窯し、岸岳直系の古唐津を作った。そして元和初期に、当時の中心地であった椎の峯窯へ移り、藩主であった寺沢氏の御用窯を務め、以降、その庇護のもとに、唐津焼の本流として伝承の技を受け継いでいく。初代又七から数えて5代目が現在の唐人町に開いた御茶盌窯が、14代の今日まで守られている。
また、長い歴史のなかでも、12代は、古唐津の衰退期以降、現代にその魅力を広く再認識させた不世出の天才といわれ、近年の唐津焼への憧憬をゆるぎないものにしたことで名高い。
館内は、12代以降、当代の14代までの作品を展示する新館と、窯の作品が購入できる展示館(旧館)の2つの建物から成り、その間を日本庭園を見下ろす、風雅な渡り廊下がつないでいる。 新館の荘厳な空気のなかに、代々の当主の茶碗が展示され、柔らかな土味の中から立ち上がる凛とした気品にうっとりさせられる。「いつまでも眺めていたいようですね」と長尾さん。
また、展示館には、熟練の陶工たちが作る器が所狭しと並んでいる。絵唐津の皿を一枚一枚見ていくと、もちろん手描きだから微妙の差異はあるものの、その仕事の安定感に、今さらながらに目を見張る。
「やっぱり違いますねえ。手にとると落ち着きます。技術や仕事の確かさが、格の高さにつながっているのですね」と長尾さんも関心しきりだ。
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唐津焼を巡る旅は、古唐津の系譜を受け継ぐ「中里太郎右衛門窯」から始めたい。唐人町にある「太郎右衛門陶房」の格調高い門をくぐると、背筋がぴんと伸びる。すぐに目に入るのが、大正13年まで実際に使用されていたという国指定史跡、唐人町御茶盌窯跡だ。代々の当主や陶工の作品がこの窯で焼かれてきたのだと思うと感慨深い。
中里家の歴史
まずは、十四代に及ぶ中里家の歴史を紐解いてみよう。前述の通り、唐津焼のおこりは、唐津の岸岳の陶工たちである。中里家の初代・又七は、唐津焼が隆盛を極めた文禄年間に、伊万里市大川町に田代窯を開窯し、岸岳直系の古唐津を作った。そして元和初期に、当時の中心地であった椎の峯窯へ移り、藩主であった寺沢氏の御用窯を務め、以降、その庇護のもとに、唐津焼の本流として伝承の技を受け継いでいく。初代又七から数えて5代目が現在の唐人町に開いた御茶盌窯が、14代の今日まで守られている。
また、長い歴史のなかでも、12代は、古唐津の衰退期以降、現代にその魅力を広く再認識させた不世出の天才といわれ、近年の唐津焼への憧憬をゆるぎないものにしたことで名高い。
館内は、12代以降、当代の14代までの作品を展示する新館と、窯の作品が購入できる展示館(旧館)の2つの建物から成り、その間を日本庭園を見下ろす、風雅な渡り廊下がつないでいる。 新館の荘厳な空気のなかに、代々の当主の茶碗が展示され、柔らかな土味の中から立ち上がる凛とした気品にうっとりさせられる。「いつまでも眺めていたいようですね」と長尾さん。
また、展示館には、熟練の陶工たちが作る器が所狭しと並んでいる。絵唐津の皿を一枚一枚見ていくと、もちろん手描きだから微妙の差異はあるものの、その仕事の安定感に、今さらながらに目を見張る。
「やっぱり違いますねえ。手にとると落ち着きます。技術や仕事の確かさが、格の高さにつながっているのですね」と長尾さんも関心しきりだ。